まもなく沖縄にザトウクジラがやってくる!
目次
Merry X-mas !! 寒いですねぇ〜
さてクリスマスといえば・・・
まもなく沖縄にザトウクジラ御一行がご到着!
クリスマスシーズン、となるとそろそろザトウクジラのご一行が沖縄本島にご到着し、ホエールウォッチングのシーズンがが本格的に始まる季節柄です。残念ながら当店は本格的にホエールウォッチングツアーをやっているわけではないですが、運が良ければダイビングの合間にホエールウォッチングを楽しめるチャンスも出てくるシーズンです。
実はワタクシ、沖縄で初めてのザトウクジラの水中撮影に成功した写真家なのです!
ザトウクジラとの初めての邂逅
時は確か1989年だったと思います。学生時代から年の三分の一は慶良間諸島の座間味島で、とあるダイビングショップのヘルパーをしていましたが、1987年からは埼玉から座間味に居を移し、そのショップのコア・スタッフとしてすでに船長も任されるようになってました。とある冬の日、北風が止んだタイミングで座間味の北側にある男岩というポイントを目指しました。男岩に到着する直前、前方に大きな潮吹きが上がりました。最初はイルカかと思いましたが、それにしても大きい。というわけでダイビングはそっちのけでその正体を突き止めるために追い始め、すぐにクジラと気づきました。体長15mくらいだったでしょうか?夢中で持っていたカメラのシャッターを切りましたが遠すぎてほとんど写ってはいませんでした。実をいうとこのクジラ、長い時を経て沖縄に戻ってきた最初のザトウクジラのうちの一頭だったと思われます。沖縄ではイルカはたまに見ることはあっても大型のクジラを見たという情報はそれまでほとんど聞いたことがなかったのです。
沖縄におけるホエールウォッチングの黎明
その後年々、クジラの数は劇的に増え、1991年にザトウクジラの水中撮影に成功し、それを機会に沖縄本島に移住して水中写真家としてデビューすることになります。
最初の出版は、沖縄タイムス社からの「沖縄鯨物語」
1990年と1991年のシーズンに撮影した沖縄初のザトウクジラの水中撮影を含めた歴史的な写真集でした。
その後2000年のミレアムイヤー。夏にG8沖縄サミットが開催され、シーズン中なのに沖縄では海のレジャーは自粛要請で全く仕事にならなかったので、これをいい機会に、と喧騒の沖縄を後にして真夏のザトウクジラを撮影すべくアラスカに渡りました。忘れもしません。2000年の7月13日の自分の誕生日。時差を入れておよそ40時間の生涯で一番長い誕生日を過ごしました。誕生日の朝に沖縄を離れて、深夜のまだ明るい白夜のアラスカのジュノーで1日を終えたのでした。
アラスカでの成果や、前回2021年にヤクルトが優勝した年が明けたオフシーズンにテレ東の「筑紫哲也NEWS23」で特集で取り上げていただいた際に小笠原で撮影した写真などを含めて、青菁社さんから写真集「Whales」を上梓しました。なんで「筑紫哲也NEWS23」とヤクルト優勝が出てくるかってゆーと、自分の特集の放送回は「筑紫哲也NEWS23」のMCの筑紫氏はなぜか不在で、優勝を果たした年明けのシーズンオフで、ヤクルトの監督兼任プレイヤーだった古田敦也氏がMCをつとめたちょっと珍しい回だったのでした。
結果的に当初、座間味でザトウクジラを追いかけていたのは自分と、ユキ坊の二人だけ。最初にザトウクジラを目撃した情報をショップの常連だった写真家の中村庸夫氏に報告したところ、次の年にはハワイ大学ケワロ研究所の研究者が来島して、本格的なザトウクジラの調査も行われ、ザトウクジラの生態調査のノウハウも叩き込まれました。というわけで実を言うと自分は沖縄のホエールウォッチングの創始者でもあるわけです。そのまま島に残っていればそれなりのザトウクジラの第一人者になってたかもしれませんが、自分はザトウクジラの沖縄初の水中撮影成功を錦の御旗を掲げて沖縄本島に移住して写真家を目指しました。その後、渡嘉敷島などにホエールウォッチングのノウハウを伝授したのも実は私です。
と、ここまではザトウクジラに関するマイ・ヒストリー。
戻ってきたザトウクジラ
江戸時代、沖縄はもちろん日本近海はザトウクジラに限らず多種多様な種類の鯨類の宝庫でした。江戸時代の浮世絵に描かれているのはセミクジラを体ひとつで狩る勇猛果敢な日本の漁師の勇姿です。当時日本の海岸で鯨の潮吹きを目にすることは至極普通の光景だったでしょう。
捕鯨の歴史
事情が一変するのは、いち早く産業革命を成し遂げた欧米による全世界規模の鯨類の殺戮です。日本近海には豊かな鯨類資源を求めてアメリカのから捕鯨船団が押し寄せ、発明からまもないノーベルが発明した最先端の火薬を使った近代的な銛を使ってクジラを狩るようになりました。特に日本の本土からは距離があり、監視の届かない小笠原周辺ではアメリカの捕鯨船団が好き勝手に押し寄せクジラを狩っていきました。挙句の果てにはさらなる捕鯨の効率を求めて、いちいち太平洋の反対のアメリカ本国に戻らなくても済むように捕鯨船団の補給基地を求めて、当時鎖国政策をとっていた日本に対して黒船でペリーを派遣して米国が開国を迫ることになるのです。そう!日本の幕末の黒船来航とそれに続く開国はもともと日本近海がクジラの好漁場だったから、ただそれだけが当初の唯一の理由なのでした。しかしながら何より最も許せないのは、彼らはランプを灯すためだけの当時は非常に高価だったクジラの油脂分だけを収集するだけで、それ以外の部位は全て廃棄していたという残酷かつ悪魔的な欧米人の本性です。
日本の古式捕鯨
日本の古式捕鯨といえば、小さな小舟の船団を繰り出し、人間が自力で扱える程度の大きさの手銛だけを使って、生活に必要なだけの食糧を獲るだけの質素な生活です。「鯨一頭七浦を潤す」と言われますが、古式捕鯨で有名な和歌山あたりでは、クジラがどこかの「浦」で一頭獲れれば「七浦、」すなわち周辺7つの村が飢えずに暮らせる。という意味なのです。鯨漁の漁師たちは命懸けで一頭の鯨をコツコツと狩ることで「七浦」の人々の生活を細々と守り続けてきた訳です。鯨にしても回遊のシーズンはありますし、狩に適した状況になることも稀だったでしょう。その辺のところは先日お亡くなりになったC.W.ニコル氏の「勇魚」という小説を読んでいただければご理解いただけるでしょう。正直、C.W.ニコル氏の「勇魚」に比べれば、メルヴィルの「白鯨」なんて読む価値もない駄文です。もともとC.W.ニコル氏もカナダのネイチャー・レンジャー出身で、最初は和歌山の太地のイルカ漁に反対する立場で太地に移り住みましたが、日本の古式捕鯨の真実を知るにあたり、日本の文化や習慣に感銘を受けて、「勇魚」をはじめとする小説に昇華させた偉大な作家です。興味のある方はぜひ「勇魚」お読みになってください。太地の鯨漁師を生き生きと描いた巨編です!
さらには日本では獲れた鯨は全て無駄にすることなく利用するシステムが古来から出来上がっていました。そもそも海洋国家である日本人にとって鯨類は他の魚類と同様、貴重なタンパク質の補給源です。さらにはまず骨格は、古くは建材に利用されていましたし、日本の誇る浄瑠璃などは鯨髭無くしてはあり得ない文化です。また、日本では江戸時代に平賀源内など西洋にも遜色のない優秀な発明家や技術者を輩出していますが、そういった創意工夫の発明品や、日本独特のカラクリ人形などにも鯨髭は欠かせないものだったのです。
アメリカによって採り尽くされた日本周辺の鯨類
というわけでその後、日本中の鯨類資源は米国捕鯨軍団によって狩り尽くされ、明治後半には日本周辺でクジラを見かけることはほとんどなくなったと言われてます。
その後日本にも近代捕鯨が導入されるわけですが、すでに日本近海のクジラはすでに米国によって狩り尽くされてたので、日本の近代捕鯨では南氷洋を目指すことになります。
そして近年のテロリスト自然保護団体による日本の調査捕鯨に対するバッシング
近年、自らのご先祖が行ってきた鯨類への殺戮はどこ吹く風がごとく、西欧人たちによる、調査捕鯨を南氷洋で続ける日本に対してのバッシングを続けてきました。特にオーストラリアのシーシェパードと、フランスのグリーンピース。この二つの団体は自然保護団体の名を借りたただのテロリストであり、ただの愚か者の犯罪者集団です!
日本をはじめ、北欧や、アイスランド、アラスカのエスキモーなどには古来から鯨食文化が息づいており、何人たりにもその習慣を責められる謂れはないのです。もちろん特に日本ではすでにそもそも海産物離れが加速しています。ちなみにこちらも戦後の米国によるGHQの政策によるところが大なのですが、とりあえず、あえてクジラを食べる必要はないだではないか、という意見には一定の理解はできます。でも自分なんかはハリハリ鍋はもちろん、尾の身や赤身の刺身や寿司は大好きです。捕鯨の問題で言うと、特に許せないのは米国です。米国は日本に対して調査捕鯨を非難している国の一つですが、自国民であるアラスカ州のエスキモーには伝統捕鯨を認めており、絶滅危惧種の中でも特に危険度が高いホッキョクセミクジラやイッカククジラの捕鯨を認めているという事実。まして米国こそが日本近海の鯨類資源を絶滅させた張本人なのですが、全く米国人の厚顔無恥ぶりには呆れるばかりです。重ねて言いますが、日本はもっと鯨食文化を内外にアピールすべきです。別に絶滅危惧種の大型鯨を捕鯨しろと言っているわけではございません。バランスを取るために小型の鯨類は計画捕鯨しつつ、その漁獲をもともとあった日本の鯨食文化に組み入れることで、消えかかっていた日本の鯨食文化を再生することで、日本の食文化をさらに多様化させ、観光資源につなげることができることは間違いありません!
鯨類の数のバランスはすでに崩れている。
欧米の情緒的な一部の学者の主張としては国際的な全面的な捕鯨禁止を求めていますが、そもそも彼ら欧米による過去の鯨類の殺戮により、鯨類の数のバランスはすでに大きく乖離しています。西欧の近代捕鯨ではまず、狩りやすい鯨から悉く狩っていったので、まず最初に数を減らしたのがセミクジラの仲間、セミクジラの仲間は脂肪分が多く死ぬと浮いてくるので、回収しやすかったという一面がありました。そしてシロナガスクジラやナガスクジラなどの大型のヒゲ鯨。流石にマッコウクジラは歯鯨類で抵抗も激しかったので優先順位的には最後になるのですが、世界的に貴重な香料となる龍涎香(りゅうぜんこう)などの超高価な副産物の可能性もあり結局は狩られていきました。メルヴィルの「白鯨」はこのマッコウクジラの捕鯨と、アルビノである「白鯨」により片足を奪われたあまりにも愚かで哀れな船長による、一方的な「白鯨」に対する復讐の物語です。あ、ついつい本音が出てしまいました。
問題は欧米による過去の一時期の無秩序な捕鯨により、鯨類の現在の生息数のバランスは本来のバランスから著しく乖離し、極めて小型の鯨類が多くなりすぎていると言う現実です。大型の鯨類が激減したことで、そのニッチを埋めるように、小型の鯨類が多くなりすぎているのです。ミンククジラやイワシクジラなどの小型の髭鯨類は南氷洋や北氷洋で数が増えすぎていると言われています。陸上での生き物もそうですが、小型の生き物の数が多くなりすぎると、数の論理で大型の生き物は繁殖を妨げられる傾向があります。大型の鯨類の増殖を図るためには計画的に小型の鯨類を漁獲することが必要不可欠なのです。このまま時に的に何のコントロールもしないまま、欧米の感情論に準じて自然淘汰に任せていてはおそらく大型鯨類は全て絶滅すると自分は思っています。
それでも確実に数を増やしているザトウクジラ
自分が座間味で初めてザトウクジラを発見したのは1988年。それからわずか30年強で沖縄に回遊するザトウクジラはすでに3桁に達しています。小笠原では4桁に迫る勢い。ザトウクジラの数は確実に増えています。慶良間初頭がいち早くザトウクジラのメッカになったのは、島々に囲まれた内海があるので、ザトウクジラにとっては子育てがしやすい環境だったのでしょう。10年ほど前、調査で先島を訪れた際に、沖縄本島はザトウクジラが来るから冬も仕事があっていいよなー。なんて羨ましがられてました。自分の船では小さすぎて冬場に組織的なホェールウォッチングはそもそも土台無理なのではありますが、「大丈夫、あと2、3年すれば石垣にも来ると思うよ。」と言ってたら、現実5年ほど前から石垣などの先島にもザトウクジラが来るようになりました。とりあえずザトウクジラについては世界中で確実に増えているようなので、一安心ではあります。
が、なかなか増えないのが、セミクジラ類やコククジラ類。そしてシロナガスクジラを含むナガスクジラ類。かつては浮世絵に描かれるほど日本近海に豊富に生息していたはずなのに、これらの鯨の目撃例は近年の日本近海では極めて稀です。
ザトウクジラが数を着実に増やしているのは、まずは、観光資源としてホエールウォッチングの対象として色んな意味で最も理想的なクジラであることが一番でしょう。調査の対象にもなりやすく、個体識別もしやすいという特徴があるので、保護の対象としては理想的なのです。また、捕鯨自体の対象としてはどちらかというとあまり魅力的ではないという側面があり、西欧の捕鯨時代にあってもあまり積極的に狩られることがなく、もともと全体的にダメージが比較的少なかったかもしれません。一方では、セミクジラ類やナガスクジラ類、コククジラ類は日本近海では回復が著しく遅れてるというのも事実です。一日も早く日本中の海で江戸時代のようにさまざまな種類のクジラが自由に遊んでいる光景を目にしたいものですね。
今年もホエールウォッチングシーズンが始まります
当店では組織的なホエールウォッチングは行っておりません。冬場の北からの季節風の中でのホエールウォッチングは大型のクルーザーでないと危険です。でも風が止まって海が静かなタイミングだとダイビングのためにポイント移動の最中や、水面休息中にザトウクジラにである可能性は高まるシーズンです。ワンチャンスを狙ってぜひ遊びにきてください。将来的には大型のクルーザーで本格的なホエールウォッチングが開催できるように頑張ります!
あと自分のウチの前は結構ザトウクジラの通り道になっています。運が良ければ潮吹きぐらいは見れるかもですよ(笑)
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